あさよるねむる

よくねむるひと

よき友人について

Q.なんでアカウント名もブログも「あさよるねむる」なんですか。

A.私の苗字は「さよる」と読みます。なので、「あ」をつけて、後は寝ることが好きなのでそうなりました。

 

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 数日前まで読書が嫌いだった。

 元々読書が嫌いというわけではなく、むしろ大好きで、地元の小さな図書館の地図や手芸本など、マニアックなもの以外はほとんど読み尽くしてしまうほど。

 私が本を読まなくなっていったのは高校生になってからだ。忙しい、というわけではなく、なぜか活字を見ることが苦手になった。本を持っていると机に置きたくなった。そんなことよりも人間と話していたい。文字と対話するのは嫌だ。そんな感じだった。

 本、という存在に何を投影しているのかは人それぞれなのだと思う。私はここでは、本たちのことを「彼女たち」と呼ぼうと思う。だって、私は彼女たちのことを「良き友人」だと思っていたから。

 中学3年生の頃、ひとりぼっちだった私に太宰治という存在を教えてくれたのは教科書に掲載されていた「走れメロス」と谷崎潤一郎を耽溺する女の子だった。その女の子は友人、というよりもどちらかというよりも同士、という関係に近かったかもしれない。一緒に遊ばないし、お弁当も食べない。会話をした記憶もあまりなく、今でも連絡先を交換していない。彼女は今も私の中で谷崎潤一郎のことを愛し続けている。

 そして私は彼に出逢い、夜眠る前は必ず人間失格を読むようになった。私は今も昔も眠ることが好きだったので、彼は夢の中でも私を支えてくれた。そういう世界観に酔いたいお年頃だったのだ。

 塾の先生に小論文を褒められたことで、私はきちんとした小説を書き始めた。その頃には私は高校生になっていて、新しい友人ができ、本を読まなくなっていた。もう孤独だった頃の私はどこにもいない。

 人間はどうして本を読むのだろう。

 知識欲?暇つぶし?他人から言われたから?

 私は彼女たちがどんな言葉を持っていたのかほとんど覚えていない。友人と交わした会話を細部までは覚えていないように、私は彼女たちのことを忘れてゆく。それでも、その無数の言葉たちは確かに私の中で渦を巻き、日々を生きる糧となり、私を励まし続けている。あの日読んだ太宰治は、私の小説たちの中にひっそりと生き続けている。

 私の部屋の本棚はほとんど本がない。私は本を読み返す行為があまり好きではないからだ。本に付箋なり文字を書き込むこともしない。彼女たちは友人だ。そんな素敵な彼女たちに自分の欠片をはめ込むのはなんだか忍びないのだ。彼女たちはあるがままの姿が最も美しいと私は思う。そして、大切だと思ったことはきちんと記憶しておけばいい。マーカーを引く必要はない。

 私は来月で制服を脱ぎ捨てる。もう着ることもない制服の残骸を振り払って、私は歩き始める。最近、私はまた本を読み始めた。4月になっても本を読み続けていたとすれば、それは私がまた孤独になってしまったということなのだろう。