あさよるねむる

よくねむるひと

宗教のはなし。

 3年前。私は何も知らない子どもだった。Twitterなどというこことは違う別の世界に足を突っ込んで、見事に呑み込まれていった。たくさんの人を傷つけてしまった気がする。わからない。怖い。

 麻薬みたいな人がいた。その人は私よりもずっと大人で、少し危ういところがあって、今にして思えば丁寧な生活、というテーマの人だった。私はその人に憧れてツイートだって物静かになった。憧れを断ち切った今でもその名残は消えなくて、嗚呼、私はいつまでも囚われたままなのだな、と実感する。

 あともう1人。今でも憧れている人がいる。その人からも色々と影響されて、私のツイートはその2人の混ぜこみご飯みたいになっている。滑稽だ。『私』はどこへ行った。

 みんな色々あって宗教を馬鹿にしている感じがするけれど(私だってそう)、Twitterだって宗教だ。同じ人にいつもハートを送っていないか? その人のツイートを遡ったりしていないか? あなたはネットの向こう側のその人に囚われている。それはもう宗教だと、思いませんか。アイドルだって俳優だっておんなじ。さらには昨日までなんてことのない普通の女の子だったTwitterやインスタ上の女の子だって。誰だって宗教になってしまう。自撮りを上げたことで、その人のことをみんなが「かわいい」と認識し、そのツイートまでにも注目する。今までTwitterのタイムラインの中でぼやけていた輪郭が急にはっきりして、あなたの中で彼女は明確な名前を持った人間になる。その人のツイートがタイムラインに流れてくると、ぱっと引き寄せられる。そして何らかの義務のようにハートのボタンを押している。

 宗教、と名づけられたものを失ったとしても、ひとはいつだって縋るものが必要で、それを見つけたら、誰がなんと言おうとそれは宗教だ。ただ、宗教という形を取っていないだけで、ひとはいつだって宗教が必要なのかもしれない。