あさよるねむる

よくねむるひと

魔法みたいな

 美容部員さんにメイクしてもらったのですが、なかなか慣れないものですね。出来上がった顔を鏡で見ると、なんだか浮いているように見えました。メイクをした自分の顔を見慣れていないだけかしら、と思いつつ家に帰りましたが、大学生になったらどうしよう、という感じです。

 一応、Paul & JOEさんの下地を買うつもりで、THREEのリップジャムもりりかさんが使っていたので気になっています。元々ヴァセリンを使っていたのでその上に塗ろうかな、なんて。アイシャドウもチークも可愛い色がいっぱいで魅力的ですけど、鏡を見ると「フィギュアスケーターか?」ってなったのではじめはしないつもりです。美容部員さんの腕が悪い、とか思いたくないので。ラメもあんまり。なんであんなにキラキラするんだ(?????)

 メイクってもっと魔法みたいなものだと思っていました。欠点を補ってくれるような。私の場合、足りない方の欠点じゃなくてすべてありすぎる方の欠点なので、メイクで誤魔化すのが難しいのです。メイクって足していくものじゃないですか基本的には。鼻も大きいし、唇も分厚いしで隠すことができないレベルです。色黒ですし。外見コンプレックスは人一倍あります。でもまあ、今はあんまり気にしてないですね。笑 治せないもんは仕方ない、という感じです。私の人生は諦観と妥協だらけですよ。

 ひとまず、ポルジョの下地とTHREEのリップジャム、プチプラのフェイスパウダー、Yves Saint Laurentのコンシーラー(これもりりかさんの影響です)がほしいなって思ってます。こう見るとめちゃめちゃメイク道具少なくなりそうです。少ないながらもデパコスを使いたい、というスタンスです。でも、アイシャドウがほしくなってきたらCANMAKE辺りで探そうと思ってます。安くていいものを探すのは大変ですけど、高いものは大体良いという勝手なイメージがあるので。敏感肌ですしお寿司。

 YSLのコンシーラー、実は5000円ほどします(!!!!!!)でも、安く買い求めることができるところがあるみたいなので、色味をコスメカウンターで実際に確かめてから通販で買おうと思います。

 めちゃめちゃ薄化粧の女です。

ごめんなさい

 ちょっと、どころではなく、かなり囚われてるな、と思ったので、Twitterを消してしまいました。1年前に消しておくべきだったな、と痛感しています。大学受験に失敗したので。多分、仮面浪人をします。それでTwitterを消したのもあります。

 Twitterを全然開かないで1日過ごしてみたのですが、はじめはなんだかそわそわとして落ち着きませんでした。でも、しばらくすると気にならなくなってきて、むしろ創作活動なんかも進むようになって、現実世界が充実し始めた気配がしています。やっぱりTwitterってもうひとつの世界、みたいな感じなので、気にかけてしまうというか、脳内が忙しいです。今は現実世界のことしか考えていないのでものすごく楽です。また1年くらいしたらTwitterを始めるかもしれませんが。笑 でも、しばらくはTwitterをする気は無いです。

 見てくださっているかはわかりませんが、フォロワーさま方にはちょっと申し訳ないな、という気持ちはあります……仲良くしてくださってありがとうございました。また復帰することがありましたら、「コイツ突発的な行動しすぎワロタ」的な感じで笑い飛ばしてやってください……本当にすみません。

 空リプどころではない空リプを送らせてもらいますが(笑)、そのうちトーシさん、日向さん、羅知さんの小説に感想を置きに参ります。待っていてください。

 ブログは日記と思考まとめ(?)用で続けていこうと思ってます。それでは。

過ぎ去りし日の

 卒業しました。

 過ぎてゆく時間の中で、覚えていることは意外と少ない。大事なことだけピックアップするかのようにピンポイントで記憶に残っている。修学旅行だとか、学園祭だとか。そういう日常とは少しだけ外れたもののことをよく覚えている。

 3年間も高校生として過ごしてきて、友人と語らった日々、センセイの声を子守唄にして眠っていた日々。花束を受け取ったとき、私はこんなに沢山の部活に入っていたのか、と思った。

 文芸部の後輩の文章の中で、はっとするものがあった。「先輩との日々を思い出そうとするが、何故かその顔が思い浮かばない。どういう表情だったのか思い出せない」だとか。私もそうだ。友人と過ごす日々の中で、彼女たちの顔を私はあまり覚えていない。それは忘れてしまったというよりも、最初から顔なんて見ていなくて、その向こう側。心を見ていたのではないかな、なんてことを思った。

 手紙を書いた。他の人はお菓子をくれたけれど、私は手紙にした。没個性の私にとって、唯一の特技といえるものは文章を書くことだけだから、日頃1人で篭もりがちな私の彼女たちに対する思いを手紙にして精一杯伝えた。その思いがきちんと伝わっているかどうかはわからないけれど。

 3年間で何か変わったかな。特撮に出ている若手俳優は1年で顔が随分といい意味で変わるけれど、それ×3の私は、そんなにぎっちりとした密度じゃない。

 これからまた4年。いや、6年かもしれないけれど。そのときの私は、どんな風になっているだろう。そんなことを考える、18歳の3月。

夢とか

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 これは何かの拍子に間違って撮ってしまったもの。

 

 

 来るであろう未来のことを考えている。大学を卒業したら一人暮らしをしろ、と言われているので、街中を歩くときはアパートをそれとなく見ているし、どんな部屋に住みたいかなんてことをinliving.さんの動画を見ながら考える。

 私は頭の回転が鈍くてどこか抜けている人間なので、小さな部屋に住みたい。家具も必要最小限にして、持ち物も少なく。自分のキャパをオーバーしないように、部屋を綺麗にしておけるように、持ち物は極限まで減らしたい。

 でも、花だけは毎日飾っておきたいな、と思う。私が花を腐らせることがなくなったとき、本当の意味で自分を認められると思うから。

墓場

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 部屋の片付けをしていたときに割ってしまった。小樽で買った彼女のことはもう忘れかけていたけれど、なんとなく捨てるのもな、と思ったので、私は久しぶりにその箱を開けることにした。

 

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 クラブハリエのバウムクーヘンの箱に、こうやって捨てづらいものを仕舞っている。思い入れがあるもの、何もないけど捨てにくいもの、写真、くまのぬいぐるみ。長い間中身を見ていなかったので、新鮮な心地がした。

 

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 吹奏楽部に所属していたときに使っていたチューナーも入っていた。電池は入ったままだったけれど、電源はつかなかった。でも多分、一生使う機会は来ないような気がしている。

 これから先、この箱に入っているものたちがどうなってゆくのかは、誰も知らない。

花を枯らす女

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 流行りに乗り遅れる女、小夜鳴子です。顔ではなく、乾燥の酷かった右てのひらに塗ったら、めちゃめちゃ潤いました。

 

 

 昔から、私の花は枯れた。ピアノの発表会のときに知り合いからもらった花束を何の変哲もない透明なペットボトルの上部分を切り取った簡素な花瓶に入れて飾っていた。最初のうちは嬉しくて水をこまめにかえてやるけれど、そのうち忘れがちになって、気がつけば花はその儚い命を散らし、異臭を放つようになっている。

 他のものもそうだった。私はよく物を壊す。スマホもよく落とす。Wiiも壊した。3DSも。忘れ物や失くす物も多い。多分、祖母に買ってもらったサマンサタバサの定期を何度も電車の中に置き忘れてしまっているから駅員さんにすっかり顔を覚えられてしまっている。

 https://www.youtube.com/channel/UC-kl8i6lq_ObZAn4kTL2WHA

 最近、inliving.さんというYouTuberの方をみている。多分、私のフォロワーさんの中でみている方も多いのではないかと思う。丁寧な生活、がコンセプトのように思える動画は、私の視界に映る私の部屋とは別世界だった。

 丁寧な生活かぁ、と思う。私の部屋は汚部屋だ。物が散乱している。これは私の性格なのか障がいなのかは結局いつまでも名前をつけるつもりはないけれど、inliving.をみながら私もこんな生活をしたい、と強く思った。

 花を枯らすことのない人間になりたい。

よき友人について

Q.なんでアカウント名もブログも「あさよるねむる」なんですか。

A.私の苗字は「さよる」と読みます。なので、「あ」をつけて、後は寝ることが好きなのでそうなりました。

 

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 数日前まで読書が嫌いだった。

 元々読書が嫌いというわけではなく、むしろ大好きで、地元の小さな図書館の地図や手芸本など、マニアックなもの以外はほとんど読み尽くしてしまうほど。

 私が本を読まなくなっていったのは高校生になってからだ。忙しい、というわけではなく、なぜか活字を見ることが苦手になった。本を持っていると机に置きたくなった。そんなことよりも人間と話していたい。文字と対話するのは嫌だ。そんな感じだった。

 本、という存在に何を投影しているのかは人それぞれなのだと思う。私はここでは、本たちのことを「彼女たち」と呼ぼうと思う。だって、私は彼女たちのことを「良き友人」だと思っていたから。

 中学3年生の頃、ひとりぼっちだった私に太宰治という存在を教えてくれたのは教科書に掲載されていた「走れメロス」と谷崎潤一郎を耽溺する女の子だった。その女の子は友人、というよりもどちらかというよりも同士、という関係に近かったかもしれない。一緒に遊ばないし、お弁当も食べない。会話をした記憶もあまりなく、今でも連絡先を交換していない。彼女は今も私の中で谷崎潤一郎のことを愛し続けている。

 そして私は彼に出逢い、夜眠る前は必ず人間失格を読むようになった。私は今も昔も眠ることが好きだったので、彼は夢の中でも私を支えてくれた。そういう世界観に酔いたいお年頃だったのだ。

 塾の先生に小論文を褒められたことで、私はきちんとした小説を書き始めた。その頃には私は高校生になっていて、新しい友人ができ、本を読まなくなっていた。もう孤独だった頃の私はどこにもいない。

 人間はどうして本を読むのだろう。

 知識欲?暇つぶし?他人から言われたから?

 私は彼女たちがどんな言葉を持っていたのかほとんど覚えていない。友人と交わした会話を細部までは覚えていないように、私は彼女たちのことを忘れてゆく。それでも、その無数の言葉たちは確かに私の中で渦を巻き、日々を生きる糧となり、私を励まし続けている。あの日読んだ太宰治は、私の小説たちの中にひっそりと生き続けている。

 私の部屋の本棚はほとんど本がない。私は本を読み返す行為があまり好きではないからだ。本に付箋なり文字を書き込むこともしない。彼女たちは友人だ。そんな素敵な彼女たちに自分の欠片をはめ込むのはなんだか忍びないのだ。彼女たちはあるがままの姿が最も美しいと私は思う。そして、大切だと思ったことはきちんと記憶しておけばいい。マーカーを引く必要はない。

 私は来月で制服を脱ぎ捨てる。もう着ることもない制服の残骸を振り払って、私は歩き始める。最近、私はまた本を読み始めた。4月になっても本を読み続けていたとすれば、それは私がまた孤独になってしまったということなのだろう。